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王国会館の誤り・仏教もキリスト教も他力本願である

2012/05/12 14:34

 

近くに「エホバの証人・王国会館」があるので、中年の信者の方がよく拙宅に来られて宗教について討論している。

 

私は仏教徒だから

「仏教では

戒学(律法を守ること)

慧学(仏教の智慧を得る)

定学(座禅して瞑想する)

の3つが大事であるが・・・

一番大事なのは””である」

・・・という主張である。なお「信とは他力本願のこと」である。

 

対する王国会館側の主張は

「律法を守ること(が大事)」・・・だから仏教でいえば戒学重視ということだね。

だから

「輸血は禁止」などと言うのであろう。

 

そこで私の方は彼らに対して

「新約聖書『ローマ信徒への手紙2』には

義人は一人も居ない(3-12)。

ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示された(3-21)。

行いの法則によるのか。そうではない。

信仰の法則によってである。

なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく信仰によると考えるからである(3-27~28)。

・・・とちゃんと書いてあるではないか!?」

と迫る。

 

・・・しかし王国会館の信者さんたちは

「聖書には別の記述もある・・・」

などと可笑しなことを言う。

そこで私も

「では・・・聖書には本当の記述嘘の記述の両方があるのですか?」

と反論するのだが会館側は納得しない。

「(聖書の言葉は)総合的に判断すべき」などと奇妙なことも言いだす。

そうなると・・・

聖書のフレーズには神意が籠っておらず、人間によって説き起こされた説明があって初めて真実が明かされることになる。

それでは

神より人間の方が偉いということになってしまうではないか・・・

 

 

このようにの教義解釈が分かれる紛争に対しては

仏教の一派である浄土真宗の歎異抄(たんにしょう)」というものが解決策になると思う。

これは開祖の親鸞(しんらん)聖人と一番弟子の唯円(ゆいえん)との討論集なので紹介しよう。

  

あるとき師匠の親鸞が弟子の唯円に問う。

「唯円はわたしの言う言葉を信ずるか?」・・・と

唯円答えて曰く。

「さようでございます」

 

親鸞は更に念を押す。

「ならば、わたしの言うことに背くまいな?」・・・と

そこで唯円

「仰せの通りにいたします」・・・

 

すると親鸞の驚愕の問いが続く!

では、人を千人殺して見せないか!

そうしたら、必ず浄土に往生することができるだろう」

・・・と

唯円は畏れ入って

「仰せでございますが・・・わたしの腕力では一人でさえもとても殺すことはできません」

と答える。

 

そこで親鸞が叱責して言う。

「ではどうして、親鸞に背かないなどとそのような嘘を言うのか!

・・・そもそも

千人殺せる腕力がある者が、なお一人も殺さないからこそ善行なのである。

一人も殺す能力が無い者が殺さないからと言って賢しらに善行を行ったなどと言い立てるべからず!

 

また

”宿業”が無いから殺せないなどと言うかも知れないが

それなら宿業があれば千人でも殺す!

ということであるぞ!」

という有名な説法がある。

 

親鸞が言いたいことは

「善人は その心が良くて善人なのではない。

悪人も その心が悪くて悪人なのではない。

人間の努力ではどうすることもできない業(宿業)があるからこそ

悩める衆生はみな阿弥陀如来への信心のみで浄土に行ける

と言ったのである。

 

宿業・・・キリスト教で言えば原罪である!

 

ゆえに

キリスト教でも「神の子であるイエス信じるだけで天国に行ける」はずである。

”律法を守る”ことなどは重要度がずっと落ちる ということ。

それに

律法を守る”という「努力だけで天国に行ける」なら”神は要らない”ということにもなりかねない。

 

第一 「モーゼの十戒」の最初にも

エホバ以外を神としてはならない

(神を信じることが一番大事ということ)

とちゃんと定められているではないか!

「殺してはならない」は6番目の戒であり

「盗んではならない」は8番目の戒である。

 

ゆえに

王国会館が「輸血の禁止」を定めるなど本末転倒と言うべきである。

 

・・・というか・・・

聖書にも歎異抄と同じような記述があるのである。

旧約聖書の「ヨブ記には

ヨブという敬虔なユダヤ教徒が全財産と息子7人と娘3人を失って悲嘆に暮れて神を批判するが・・・

「お前は天地の初めからこの世の行く末を全部見続けて来たのか?」

と問われて反省し再び財産と息子7人と娘3人を取り戻す説話である。

この結末も結局は

「(疑うことなく)神を信ぜよ!」

ということが教訓である。

 

私見ではありますが・・・

王国会館さんはイエス時代のユダヤ教で言えば(形式主義に陥った)「パリサイ派」であろうと思う。

 

王国会館さん

儒教では「論語読みの論語知らず」と言うのですが・・・

あなた方こそが

「聖書読みの聖書知らず」

ではないのでしょうか・・・

(なお 王国会館さんの聖書解釈は特殊なものであって

世界のキリスト教徒全体・主流派の聖書解釈は私の側の主張と一緒です。

お間違い無きように・・・)

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質問に答えないのは新聞記者の方である!

2012/05/10 00:59

 

橋下大阪市長に対して毎日新聞の女性記者が

質問してるのは私です!

などと記者会見で不平を言ったらしい・・・

 

しかし私の経験からすると・・・

質問に答えない第一位は新聞記者そのものである。

 

10年ほど昔になるが・・・

読売新聞に「明治天皇の統治責任」などと称して

「日露戦争で明治天皇は作戦会議などで統治権を行使した」

との記事があったので私はすぐさま読売新聞の鬼頭記者に電話を入れた。

なお 最近は「電突」など当たり前だが、私が最初に始めたことであったと思う。

 

私の言い分は

統治権とは拒否権である。

たとえば

英国では成文憲法が無いので 判例がその代わりをしている。

つまり 君主制→民主制 への移行がいつ行われたか?厳密には分からないのであるが 一応1707年にアン女王が最後に拒否権を発動したことになっているから、それ以後のいつか?が移行の時期とされている。

 

旧帝国憲法には”国務各大臣は天皇を輔弼(ほひつ・助けること)しその責に任ず”(55条)というのみで天皇に拒否権がある規定は無い。

実際に天皇が拒否権を行使した判例も無い。

昭和11年の2・26事件では岡田啓介首相は一時行方不明だったのであり

終戦の御前会議でもポツダム宣言の受諾をめぐって賛否同数に分かれてしまったもので・・・

天皇統治権行使の特別な例外的事例に過ぎなかった。

 

また現日本国憲法においても

第15条に国民に拒否権があることが定められているが

この条項が無くとも なお国民に主権があると断言できるのか?」

というものであったが・・・

結局

読売の鬼頭記者は 私の言い分を認めた

 

しかし私が

「では 私の言い分が正しかったとあなたも認めたのですから

記事の訂正をお願いしたい」

と申し出たのであるが・・・

「会議で決定したことですので 私(鬼頭記者)の一存では決められません」

とのこと・・・

さらに

「ではあなたはどう考えますか?

訂正すべきか?訂正すべきでは無いのか?」

と重ねて聞くと・・・

「個人的な質問には答えられません」

と鬼頭記者。

 

お分かりでしょう・・・

「私が質問してるのです!」と他人には言いながらも

「自分は質問には答えない」というのが新聞記者の定番なのです。

矛盾してるじゃあ~りませんか?

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「本を読んでから批判しろ!」という無茶

2012/05/09 13:59

 

よくネットでは「批判するなら、その本を読んでからにしろ!」という言葉を色々なところで聞く。

 

しかし

これは無茶な要求である。

 

誰しも忙しい昨今 好きな本さえ読む暇がないのに・・・

嫌いな作家の著書などなおさら読む気になどなるはずがない。

 

と言うより・・・

「この本を読め!」と言う本人が その本の要約を教えてくれれば手っ取り早いのではないか?

要約が出来ていない者に「その本の内容を頭に入れろ!」と言われるのでは、こっちの方が困惑してしまう・・・

 

「その著者のワンフレーズのみで批判するな!」と言うのなら・・・

全体の位置や真意の正確なところを私に教えてほしい。

 表面的なことや一言の発言で批判されるのはよくあることで・・・

「物を盗んだら、そのことのみで起訴される」

のだから仕方がない・・・

誤解を受けたら再反論するなりして誤解を解けば良いだけのことである。

 

 

また

私が「これから経済成長をするには消費者余剰が有効である」と言ったら・・・

「消費者余剰はミクロの問題であり、マクロ経済には影響しない」

などと茶化す者がいる。

しかし

合成の誤謬はあくまでも例外規定であり

「個人個人が合理的選択をしても社会全体が合理的選択をしたことにはならない」

(個人個人が良いことをしても 社会全体では悪くなることもある)

・・・ということに過ぎない。

「何が何でも 全部悪くなる」

と言う意味では無い。

 

そもそも

マルクスが「下部構造が上部構造を規定する」と言ったように

一般的に社会学では 上下が関連して居ることを前提に論理が進められている。

 

第一

こんなイチャモンを付けてくるのは三橋信者に多いのだが

三橋自身が

「日本国債は国内でほとんど消化されているのだから

たとえば 親が息子から借金するようなもので、まったく国債デフォルトなど心配することはない」

と言って居るのだから・・・

三橋貴明自身がマクロ経済学とミクロ経済学をごっちゃにして自分の理論を説明しているではないか!

 

まったく

思考力欠如の2ch的思考をする者が多くて困ったものである。

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競走する社会主義 棲み分ける資本主義

2012/04/13 14:18

 

巷間「資本主義は競走だ!」とよく言われるが

それは日本で言えば60年代70年代の高度経済成長時代までの話であって・・・

むしろ

競走するのは社会主義の方なのである。

 

社会主義といえども

「能力に応じて働き 働きに応じて給与を受け取る」のであるから

まず「ノルマ」(最低生産義務)を定めて

それを越えて生産したら割増賃金が与えられる。

また社会主義は官僚国家であるから

より高位の官僚になって権力者になることで競走をする。

権力を握れば周りが忠誠競争をするから自然に収入も増えるからだ。

結局・社会主義でも競走を行うのである。

 

この反対に資本主義では

製品・商品の値下げ競争になると 利益率の低減になるから

基本的に”競走を回避する”というincentive(動機)が働くのである。

A社とB社が両方アンパンを作ると価格競争になるから

一方がクリームパンを作るというようなことだ。

 

自動車製造業の分野でも

1903年にフォード自動車工業が組み立て生産ライン式の製造方法を考案してモータリゼーションの先駆けとなったが・・・

このころはT型フォード一車種のみの生産だった。

ところが

企業買収で雑多な車種を抱え込むことになったGM(ゼネラルモータース)が

多品種少量生産のモデルを構築して

中古車市場や保険市場まで手を広げて現代の自動車会社経営の基礎となっているのは皆さんもご承知のことである。

資本主義は競走を嫌って”棲み分け”の方を選ぶ

ということの好例である。

 

ちなみに

GMの方式を「垂直統合(型企業統治)」と言う。

 

もう少し詳しく解説すると

高度経済成長時代は安価で画一的な商品の大量生産方式であったから

人口が増える限り経済成長が可能だった。

しかし

80年代~90年代になると

人口増加がストップし 白物家電やマイカーなどが普及し尽くすと

画一的な大量生産方式では経済成長し続けることが出来なくなってくる。

それでは社会主義と同じ質を忘れた数量だけの価格競争となってしまい利益率が逓減するからだ。

 

そこで

「商品の差別化」「個別化」が先進国企業全体の課題となって来る。

社会現象としても

グルメ嗜好とか カーマニアとか 鉄道オタクとか アキバ系とか・・・

関心が無い分野では節約するが 自分の好きな特定の分野への散財を惜しまない層が生まれてきた。

これが

資本主義の棲み分け

なのである。

 

これを経済理論として解説したのが

新古典派経済学者A・マーシャルの消費者余剰(説)」なのである。

 

つまり

消費者余剰=最大限払ってよい金額実際に支払った金額

であるから

「消費者余剰とは取引による嬉しさ」(欲しいものが安く買えた!)であると言えよう。

この嬉しさがあるからこそ

楽しい商取引を求めて資本主義では消費がますます盛んになるのである。

(バーゲンセールの熱狂を見よ!)

 

ところが社会主義社会では

政府が個人の生活や嗜好にまで介入して 単なる好き嫌いまで差別として禁止したり 社会に奉仕する義務を要求する。 

利潤を取ることは搾取」であるから

「価値100円の商品を100円の貨幣で交換する」だけになってしまって

商取引に嬉しさなど生まれようがない・・・経済活動が委縮してしまう。

社会主義の商取引には「嬉しい誤算」など無いから

計画経済ゆえの行列などの苦行だけが残る。

 

結論

資本主義の長所は競走にあるのではなく 棲み分けにこそある

90年代以降特に 先進国で経済成長が鈍化しているのは依然として大量生産時代の意識が残っているからであろう。

ゆえに景気回復への道とは

規制を緩和して小さな政府となり

画一的にではなく 個性的に生きることを奨励し

各企業は消費者の嗜好の多様化に対応して

自分以外と個別化・差別化する商品を開発し消費者consumerの好奇心をinspire(鼓舞)すべきである。

資本主義繁栄の秘訣とは

消費者が買おうと思う金額以上の商品が陳列されている夢が掻き立てられることにある。

それが資本主義市場経済をますます豊かにするのである。

 

人口は同じでも

元気な人100人の社会元気がない人100人の社会とでは 社会の活気がぜんぜん違うと言うことだろう。

たとえば

イオンが甘いトマトを売り イトーヨーカドーでは酸っぱいトマトを売る

それでも良いではないか・・・

 

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橋下よ「プロセスより論理が先」だぞ!

2012/04/11 17:07

 

橋下大阪市長と池田信夫氏のtwitterとblogでの論争は決着がつかないまま取り敢えず終わったようだ。

日本の識者は行政経験が無い(橋本徹)

橋下氏への反論」(池田信夫)

 

しかし

橋下市長もおかしなことを言うものである。

 

「池田氏などの学者は論理は立てられるが

私(橋下)などの政治家はそれを実現するプロセスこそが求められる」

・・・と

 

以下の図を見ていただきたい・・・

いくら橋下市長のように政治プロセスが優れていても

その前の論理がまず間違っていれば

すべて失敗する!

(そりゃそうだわな・・・)

 

登山でも

最初の分岐点で道を間違えたら 

次の登山道をちゃんと歩こうが・いくら俊足健脚であろうが頂上まで登れない。

 

「水は炭素と鉄からできている」と思い込んでしまったら

実験がどううまくいっても実験結果はパ~ッである。

 

だいたい・・・

プロセスが順調にいったはずのソ連社会主義も中国社会主義も社会主義理論自体が間違っていたからこそ全部失敗したのでは無かったのか・・・

 

だから私は

「成長理論(戦略)が無いから橋下改革は必ず失敗する」

と言っているのである。

 

道州制」「地域主権」などと言っても

所詮はゴミを掃除する程度である。

江戸時代の300諸侯を50程度の都道府県に再編したのが明治維新であったが・・・

農業生産だけの江戸時代から技術革新による近代工業国家の建設という論理があったからこそ成功したのである。

だから

「消費税を地方税に」と言ったところで

オフィスの机を並べ変えて整頓した程度である。

問題は

「どのような仕事をするか?」なのだから・・・

新しいコンテンツが生まれない・成長企業が参入してこない”地域主権”では看板が泣くというものである。

 

「論理より政策実現へのプロセスが大事・・・」と橋下市長は言うが

8党連立の細川政権では「国民福祉税7%」を提案した小沢一郎

今度は「消費税の福祉目的税化の反対」で連携するのだと言う。

また橋下市長は「改革への方向性が大事」とも言ってるが

反自民・細川政権に参加したり 自公政権で連立したりの公明党と組むと発表したりしている。

いったい橋下市長は

公明党は自民寄りか? 反自民寄りなのか?」

どっちの方向性を評価して公明党と協力するつもりなのだろうか?

 

もう一つ橋下市長に言っておこう。

学問をバカにしてはいけない。

100年ほど前に科学の大転換が起きているのである!

永久不変の真理と信じられていたユークリッド幾何学が

公理とは世界をあるがまま写し出す”真理”ではなく 数学者の間の”規約”に過ぎない」

とされたのである。

 

公理主義から形式主義

 

「研究に都合がよければ、矛盾さえ起きなければ、どんな公理を考えようが数学者の勝手である」

ということ・・

証明など要らないのだ。

 

リーマン幾何学:2点間に直線は無限に引ける。

          球面幾何学では三角形の内角の和は二直角より大きくなる。

 

相対性理論:我々が住む宇宙空間は湾曲している。

 

量子論:原子の構造は太陽系のように原子核の回りを電子が回っているのではなく霧のように存在している。

 

↑これらに物理的証明は必要無いのである。

(矛盾の無い)論理のみで良い・・・

相対性理論はアインシュタインが理論を考えたが 証明したのはずっと後になってから別人が行っている。

なにしろ

ポアンカレ予想などは

”宇宙の果てまで縄を張り巡らせ そのまま地球に戻ってくれば「宇宙は球形」

引っかかって戻って来なければ「宇宙はドーナツ型」

・・・という理論なのだから

何百年経とうが証明しようが無い・・・

 

ゆえに今回のことも

橋本市長の「大阪都構想」(地方分権道州制)・・・

池田教授でも誰でも理論がおかしければいくら批判しても構わない のである。

第一

「正義は一つ」では無いのであるから

政治家はその優先順位を提案するに過ぎないのである。

 

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「小沢・橋下猿芝居」噴火山上に踊る!

2012/04/07 23:42

 

どうやら

橋下大阪市長の化けの皮が剥がれたようである。

池田信夫氏のblogによると

橋下徹は最初から小沢一郎と組みたかったようだ。

小沢裁判が終わる4月末あたりから新党結成などの本格的提携や合同に向かうつもりなのだろう。

 

ただ問題なのは池田氏が指摘しているように 橋下は

小沢先生が消費税増税に反対しているのは一貫している」などと勘違いしていることである。

とんでもないことで・・・

そもそも1994年2月に細川内閣が突然消費税3%を→福祉目的税7%にすると発表して総辞職したが この増税案は新生党幹事長の小沢一郎が考えたものである(当時の大蔵事務次官:斎藤次郎とともに)。

 

それに「地方交付税を地方消費税にする」などとは小沢は言ってないし

「補助金を全部一括交付金にする」と言っただけだ。

それに消費税を地方税化したら

隣の県の消費税が安くなったり高くなったりするのだから日本中が大混乱となる!

こんなことも分からない橋下徹は経済オンチであることが明白である。

 

また これだけ橋下が

小沢を勘違いしているということは・・・

小沢が橋下のtwitterで褒められたのを得意げに吹聴していることと併せて・・・(随分軽薄な剛腕だねぇ?)

二人の猿芝居というよりも たとえ橋下・小沢政権が誕生したとしても 何の成果も上げられないことは100万%確実ということであろう。

マルクスが

「最初は悲劇(小泉)として 次は喜劇(橋下)として・・・」

と「ブリュメール18日」で言っていることが残念ながら当たってしまうようである。

 

しかし

何故このようなことが日本では起きるのか・・・

多分

日本国民は政府をもの凄く信用しているのだと思う。

マスコミなどで巷間言われるように政治家が本当に国民からバカにされているなら・・・

「それなら 俺たち国民が自分でやろう!」

と言うはずだからだ。

それは

歴史上 日本には庶民を本当に苦しめた独裁者も専制君主も出なかったからだと思う。

黄門さまや8代将軍吉宗がTVなどでヒーローになるのもそこから来ているのだろう。

知っている人は知ってるが 知らない人は知らないことに

日本のお城には城壁があるが・・・

城下町全体を守る城壁は一つも無いということがある。

これは中国でも 西欧でも都市には普通にあるものなのである。

 

これは

日本では古来より 戦争は武将などの支配階級だけで行うものであり

城下町の商人や町人にまでは及ばなかったということでもある。

日本は平和すぎたのである。

 

しかし

国民が「劇場型政治」を楽しんでいる余裕は最早ない!

もし橋下・小沢政権が誕生すると・・・

橋下の親戚には土建業者が多く そもそも小沢は公共工事のドンであるから

消費税を地方税に移管して役にも立たぬ公共工事をじゃんじゃん行うのだろう。

政府の債務残高が1000兆円にも上る昨今・・・

これ以上国債を積み上げたら日本国の破産は確実である!

小沢の方は

昔は新自由主義のようなことを言ったりしていたが現在は「国民は生活が第一」などと福祉国家に転換したり

細川内閣のときには消費税増税の急先鋒でありながら 今は増税反対などと平気で言う変節漢である。

橋下の方も

思想も何も無く 左右の政策をあちこちつまみ食いしただけの政権獲得目的だけのポピュリスト政治家である。

こんな「アホ猿2人」に日本が救えるわけがない・・・

 

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経営者が付加価値を作り・公選首相が責任を取る

2012/04/01 12:51

 

地盤・看板・鞄・・・と言うが

日本の議員は何らかの利益代表である。

市議会議員などは

「地元の・・・でございます」

と選挙戦で連呼するのが定番である。

国会議員もどこからかの地元選挙区から当選してきているので

日本全体の利益を考えるより 常に出身選挙区や支援団体の方を向いている。

その枠を越えられない・・・日本で言えば自民党民主党も同じである。

 

マルクスはこれを

「議会制民主政治の欺瞞性」

と言っているのだ。

 

それはその通りなのだが・・・

マルクスには大きな間違いがある。

 

マルクスは

労働者階級proletariatと資本家階級bourgeoisの闘争が歴史を進化させてきたと思っているが

資本主義的な付加価値を生むのは労働者ではなくて

資本家の方だったのである!

 

これは3周遅れの政治哲学者・柄谷行人などが唱える

「互酬(経済)」で考えれば一目瞭然である。

互酬とは

山から山菜を取ってきて海辺で売り・魚などを山に持っていって売る「単純交換」の経済である。

たしかに公平で平等だが これでは

何百年経とうと社会は貧しいままである。

それで社会を革新する資本主義経済が生みだされたのだ。

労働者だけの世界に新しく”資本家”という革命児が現れたのだ。

 

現代の日本経済で何が問題かと言えば

元気が良い優良企業は海外に出て行き・・・

海外に出られない時代遅れな企業とか 老人や 公務員・利権団体などの資本主義経済に寄生する団体・・・などが国内に残ってしまっていることであろう。

このような人間ばかりで選挙を行って”民意を汲み上げる”と言っても何になるのやら・・・

 

よくTVなどで共産党の国会議員などが

高額所得者から税金を獲れ!」とかの「所得の再分配」を唱えているが

それでは「金の卵を生む鶏を殺す」ようなもので・・・

誰も付加価値を生もうと考える者が居なくなってしまう。

株式会社は分配が目的の組織では無く

仲良し組合でもない。

 

繰り返すけれど・・・

労働者が付加価値を生むのではない。

経営者が生産性を上げ

付加価値を生む商品を考えたり・探したりし そのための投資をし経営転換をするのである。

 

その決断はマルクスが求めるように

独裁的」である。

取締役会と経営者は株主に責任があるし

労働者には転職する自由があるからだ。

要は

株式会社の目的が「時価総額(企業価値)を上げる」ことにあるのであって

労働者への報酬はそのための経費に過ぎないことだ。

 

ゆえに

日本の政治の立て直しにも

大阪市の橋下市長流の「独裁的手法」も許されるのである。

・・・というか それしかない!

なぜなら

これまで私がここで言ってきたように

議会は”特定の地域の代表”や”利権団体の代表”に過ぎないからだ。日本共産党自体が「利権団体の代表」に入るのだから当然のことであろう。

もちろん

「首相公選」(日本全体の代表)が前提であって

「独裁的手法が許される」と言っても

言論の自由や三権分立は守らなければならない。

議会も「チェック機能」としての役目を果たすから何らの実害もあり得ない。

 

日本の政治で一番大事なことは

現在ある日本の財貨を公平に分配することでは無く

日本国民を含む日本全体を将来に向かって発展させることである。

日本全体の時価総額が上がれば

結果として日本人全体が幸福になると予想されるからである。

そうなるためには

有権者が政治家個人の魅力に頼るのではなく 「小さな政府志向」とかのイデオロギーで政党が組織されるマニフェスト選挙が確実に行われることが何よりである。

 

橋下市長については

経済成長への戦略とか思想的基盤があやふやで私には支持できない面はあるが

独裁的手法」とか「首相公選制」の必要性は十分に私も理解できるのである。

なお”マルクスの独裁志向”については

既に社会主義の失敗が明らかであるし

彼の理論の主柱であった「歴史の必然性」そのものがレヴィ=ストロースによって論破され破綻しているのであるから いまさら話にもならない・・・

 

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闘争的なゲマインシャフト

2012/03/30 01:36

 

人類社会は最初「ゲマインシャフト」(有機的共同体)であったとされていた。

家族親族共同体とか部族社会がこれに当たる。

個人はあくまで”集団あっての個人”である。

 

しかし農耕社会となって構成員が飛躍的に増大すると

「ゲゼルシャフト」(目的共同体)に移行する。

現代で言えば株式会社などであるが

個人を尊重しながら二次的に他者との結合も行うのが特徴である。

しかし

構成員同士がお互いに知り合っているゲマインシャフトと違って

多数の国民を統合するのには合理的根拠が無いから

「宗教的権威」のカリスマ性が必要とされる。

しかしこれは他集団と戦うには適している反面

階級制度が生まれ・内部的には構成員の自由を抑圧するから長期的には共同体が不安定になる。

 

マルクスなどの左翼思想家は

これを「搾取」とか「疎外」(人間性の喪失)と捉えて

革命を通して”ゲマインシャフトの世界”に戻ることを目指すものである。

もともとこれは

啓蒙思想とかルソーなどの影響が起源である。

 

しかし

100年以上も前に書かれたマルクスの考え方は

現在ではかなり変更を余儀なくされているのだ。

それは

ゲマインシャフトの社会が平等だったのは

人類の集団が小集団であったからであり(お互いが知りあっているから)

ライオンなどの猛獣と同じに小集団の方が他集団を攻撃しやすかったからなのだ・・・だから集団内の対立を無くすように平等を重視した・・・ということが最近の調査研究で分かってきた。

 

これを最近の霊長類の事例で例えれば

ボノボという人類に一番近いチンパンジーの親戚がいるが

左翼はボノボの平和な社会が気に入っていた。

しかし最近の研究では

ボノボ他のサルを捉えて食べてしまう残酷な習性があることが分かって

言及が無くなってしまった。

 

ゲマインシャフト社会が実は戦闘的だったのであり

小集団のみで可能だったのである。

それが現代において

左翼が理想とする社会主義社会が実現するとしても それは大集団とならざるを得ず

共産党自体が宗教化して スターリンとか毛沢東金正日などの宗教的権威に頼らざるを得なくなるのである。

それはやはり

自由が抑圧される祭政一致の宗教国家への逆戻りである。

 

サル山を見れば分かる。

サルの社会はボス猿を頂点とする「階級社会」である。

実はゲマインシャフト以前の社会は階級社会だったのである。

その人類創成期の階級社会を壊したのが

武器の獲得だったのである。

そして武器の破壊力があまりに残酷であったがゆえに

それを抑制する遺伝子や慣習が人類社会で発達進化することになったのである。

人類の闘争性を平和的な競争に転換する仕組みが資本主義と市場経済であったということ・・・

 

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AKB48は幼形成熟の日本文化

2012/03/28 12:45

 

AKB48の生みの親である秋元康さんが面白いことを言っている。

日本のコンテンツはなぜ海外で勝てないか

 

韓国のK-POPは

最初から完成されていて 歌も上手いし・ダンスもプロ級である。

しかし

日本のAKB48やその先輩格であるおニャン子クラブなどは

デビュー当時は技術的にはセミプロ程度で完成度はイマイチであった。

 

だがAKB48は素人でも入団出来そうなので

ファンにはその親近性が魅力であり メンバー自身にとっても自分の可能性が様々に開発できるので、型にはめられる韓国アイドルに対して自由さがAKB48の将来性を豊かにしている。

”あっちゃん”の卒業宣言なども

セミプロからプロへの脱皮する過程であるから そもそも最初から予想されていたことなのである。

 

実は

これが日本文化の特徴的なところなのである。

人類は知能が発達して脳味噌が増えて・・・

頭が産道を通らなくなったので未熟な胎児のまま出産するようになった。

この幼児期が長いことがさらに

人類をして哺乳類・霊長類に優越させた「好奇心」の源になったのである。

好奇心を満足させるために人類は

地球の様々な地域に進出し 様々な文化を生みだすことになるのである。

これを「幼形成熟」neotenyと言う。

 

日本人は

このネオテニーが一番進んでいる民族と言われていて

これが歴史上・海外の文化を効率よく取り入れてきた原動力になったのである。

 

たとえば最近の中国などは

「自分こそが世界の標準となるべきだ!」という意識が強すぎて世界から嫌われる傾向がある。

しかし

日本人はこの反対で・・・

自分を捨てることが美徳とする民族であり そのような文化を持っている。

たとえば

柳生新陰真剣:白刃取りである。

これは

敵が自分を幹竹(からたけ)割りに斬りおろして来るのを

素手で両手の拝み取りで挟んで受ける剣法である。

これが出来るには

「自分を捨てる」ことが必要となる。

敵が斬りおろすのと 自分が受けるのとが

一瞬遅れれば受け損なって斬られるから・・・

成功させるには受けの動作を敵と同時に無意識に起こしてキャッチしなければならないからだ。

 

この例は

明治の西洋文化の取り入れ方にも表れている。

日本は開国に際して

西洋文化の新しい言葉まで日本語に置き換えて・名も実も両方取り入れたのである。

哲学とか肯定・否定や主観・概念とかの言葉はこの時代に生みだされている。

ところが中国では

洋務運動と言って 「西洋文化の技術は取り入れるが 精神は取り入れない」として

中国語の新しい新造語は作らなかった。

現在の用語は日本からそのまま輸入したものである。

 

このように

AKB48など日本型のアイドルが完成形としてのプロでは出発せず しかも誰かのマネに終わらずに自由な成長を目指すならば・・・

「自分を素直に自然に表現すること」

が重要であると私は思う。

芸術や芸能の世界では独創性がモノを言うからである。

そして

未完成だからこそ

美しい夢を花開かせることができる。

 

仏教での「中道」とは

苦行に汗をかかず・・・

快楽にも溺れず・・・

見返りを求めない無の心で悟りを開くこと

であるからだ。

 

AKB48も

素人っぽいと言われても他人のマネをしているわけではない。

奢(おご)らず 僻(ひが)まず

日本人のあどけなさと自然に自分を肯定できる感性を素直に表現しているから人気があるのだと思う。

これを秋元康さんは

止まっている時計は1日に2度、正しい時間を示す

と言う言葉で表現している。

自分の個性と能力は

それが心と体の中から澱みなく湧きあがって来るものである限り

必ず誰かが認めてくれる

ということであろう。

 

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日本の宿痾を背負う橋下改革は失敗する

2012/03/26 15:42

 

大阪市の橋下市長による維新改革はTVで土曜・日曜と本人が出演したので・じっくりと見させてもらった。

 

たしかに

公務員改革については大賛成なのだが

「一回使い切り型の人生」(相続税増税)などは

保守主義で市場原理主義の私としては断固反対する。

 

それよりも問題なのは

橋下市長が個人的なリーダーシップに頼るあまり

思想(I deologie)が無いことである。

右と左から適当に摘まんできただけなのだ。

 

これでは

「既存の利権政治から脱却する」と言いながら

古い自民党型の派閥政治と大同小異となるのではないか?

と懸念する。

分かりにくいと思うので詳しく解説しよう。

 

基本的に日本では

技術者が優秀なので 経営陣はダメになる。

つまり

日本の技術者は勤勉で優秀な能力を持ち特許も多く取得する。

そこで上層部の経営陣は

技術者に仕事を丸投げするようになり 

新しい技術の開発は小幅に徐々にすることになる。その方が経費節減になり合理的だからだ。

そこで取締役会は利害調整の場となり・・・

責任を取らない分散型決定システムを採用することになる。

 

これは

徳川家康が優秀なリーダーでありながら

天下を取ってからは「老中の合議制」に移行したことと同じである。その方が徳川家が長期政権を維持出来るからであり・新たな”独断専行型の野心家”を阻止することの長所があるからだ。

これが

日本では「織田信長型の強力な指導者がなかなか育たない理由」なのである。

中国文化大革命で毛沢東が

造反有理」を紅衛兵に吹き込んだが

自分自身への造反有理は決して許さなかったこととも同じ理由からである。

 

反対に

アメリカでは技術者がバカなので 経営者の方が優秀にならざるを得ない。

日ごろから社内の無駄を削減し 新規分野へもどんどん進出しなければ

時代遅れになって会社が倒産してしまう。

だから

株主が強くて配当の要求もうるさいから経営陣にも利益を生みだす強力なリーダーシップが求められる。

 

このことは

先の大戦:大東亜戦争においても同じであった。

ゼロ戦は当時としては 世界最強の戦闘機であり 日本軍のパイロットの操縦技術も世界最高であった。

 

しかしアメリカでは

操縦士がバカだったので 軍上層部が卓越した戦略で対抗せざるを得なかったのである。そうでないと戦争には勝てないからだ。

そこで米軍は

”バカでも操縦できる戦闘機”を開発して

2000馬力のエンジンと大口径の強力な機関砲のP-38ライトニングやP-51ムスタングなどの戦闘機で「一撃離脱の戦法」で

日本軍のゼロ戦(1000馬力で小口径の機関砲)に

対抗したのである!

これが「時代の推移」だったのだが・・・

日本軍はパイロットの技量が優れていたので

腕の見せ所である「ドッグファイト(空中戦)」にこだわり

単純な戦闘方法である”一撃離脱”を嫌ったのである。

もちろん

堀越二郎などの設計者は世界の情勢は分かっていたのだが 軍の上層部が歴戦の古強者に押されて新型戦闘機の投入が遅れてしまった・・・

 

その後の結果は歴史の示す通りである。

 

 

つまり

今日の政治においても 政治家個人の魅力や力量に頼っては世界には通用しない

ということなのである。

橋下市長の人気も「政治技術」に過ぎないからだ。

それは

アメリカの政治を見れば良く分かる。

共和党が「小さな政府」(自立自助・自己責任)を唱え

民主党が「大きな政府」(福祉社会・弱者保護)を唱えている。

要は

イデオロギーがまず先にあるのである。

それに基づいて政策が決定され 選挙の時にはマニフェスト(公約)が示される。

この方が有権者には投票するのが簡単だからである。

 

これに反して日本では

政党政治は建前で 基本的に候補者個人の選挙である。

イデオロギー(思想)などは二の次で 政策で選ぶというよりは

政治家個人の人間性で選ばれるから

有権者には政治家個人の情報などほとんど探りようもなくて 印象だけで投票することになる。

 

・・・ということは

今回 橋下維新の会の選挙手法というのも

結局 従来の自民党や民主党の政治手法と大差はない

ということである。

 

だって・・・

仮に橋下改革が成功したとしても

その後継者は「成功した改革をさらに大きく改革」などできなくなる

からである。改革は成功しているからだ!

ゆえに

橋下改革を少しづつ改良するだけの合議政治に戻ってしまうだろう。(強力なリーダーシップが邪魔になる)

 

これは

小泉改革とも同じなのだ。

不良債権処理・道路公団改革・郵政改革・・・それに「脱派閥政治」

・・・小泉政権はこれだけの成果を挙げながら その後の自民党政権が台無しにしてしまった・・・

イデオロギーが無かったからである。

 

思想など元から無くて

適当に有権者が喜びそうな政策を掻き集めただけの橋元改革同じ末路を辿るのは当たり前なのだ。

 

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追記 

今回の記事中で やや乱暴な表現があったことをお詫びいたします。

ただ・・・間違いや行き過ぎを反省する上でも削除・書き直しはせずに私の論理の軌跡としてそのまま残しておくことにいたします。

 

日米兵士の優劣は特定の時期や分野のみで決めつけられるほど単純ではありません。

今回私があえてそれを単純化したのは

現在日本が置かれている問題点を浮かび上がらせる意図があったからであり 必ずしも戦史に従ったものではありませんでした。

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